Fri.

閉鎖性とつながり欲求の狭間で。

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日本に帰ってきてはや4週間くらい経ちました。いやあもうなんといっても飯がうまい。毎日欠かさずらーめんか牛丼(か、どっちも)を食べて幸せな毎日を送っています。2週間の中で東京ー京都を3往復半くらいしてるのでまだ日本を旅行してる様な感覚。そんな状態なのでまだ外から日本を見てる感覚があって、思うこと考えることが色々あります。
まぁ、いつもながら主観的な視点になってるのは念頭に話半分の気持ちで読んで頂けたら幸いです。


要はもうちょっとオープンになっても良いんでないの、ってそういうことです。

閉鎖的な日本人?
海外、少なくとも欧米のpartyでは誰か友人を呼ぶとその人が別の友人を連れてくるのが一般的。例えば誰かの誕生日party(基本的には誕生日の本人が企画して人を呼ぶ)があると、祝われる人とは初対面なんて人がごろごろいる。僕自身も顔も知らない人の誕生日partyに行ったことは数知れない。だから企画者本人以外の人にとっては、その場にいる人の大半は初対面ってことはザラ。それでもみんなそれほど気まずさを感じず知り合いと話したり、新しい人の出会いを楽しんでいる。別に欧米人の皆がコミュ力あるなんて思わないけど、大抵の人は少なくともある程度の会話はしている印象。

ところが日本で似たようなことをしようとすると、雰囲気が凍りつく。タテマエが全面に出ると言うのかなんというか、話していてもなんだかたどたどしい。たまたま訪問してた外国人の友人を連れて行ったりなんてしたらなおさら。コミュニティをごっちゃにしたparty(飲み会)の様なものをしても基本的に話すのは所属するコミュニティの人ばかりだろうし、もし何かの飲み会に自分を訪ねてきた友人を連れてきたりしても、大抵その友人は馴染めず終わってしまうことが多い。

一方で..
一時盛り上がったmixiから実名式のfacebookに時代は入れ替わり、実名公表は日本では浸透しないだろうと言われていたのもつかの間、facebookは急速に日本でも浸透した。身近な友人はもちろん、小学校の友人等とも繋がり始めた。映画『ソーシャル・ネットワーク』が一つの起点になったのでないかと思う。その前までは日本でfacebookを知っている人はほとんど居なくて、初期の頃の自分のfacebookの友人は9割くらいが外国人だった。上で書いたような閉鎖的な資質に合わないだろうと思っていたけれど、蓋を開けてみたら爆発的に広がっていっていた。勿論全員とは言わないけれど、人々はつながることに抵抗が無く、むしろつながりを求めている様にも感じた。人々がオープンになっていったのか、もしくは元々オープンだったけれどそれを出していなかっただけなのか。僕は後者だと思う。また最近では「オフ会」が流行っているという話も聞く。何か活動を起こしている人がtwitterで出会ったりといった話も。ちなみにtwitterは諸外国では大して流行ってないみたい。
そういうのを見聞きしてると、別に根っから閉鎖的なわけではないんじゃないか?と思えてくる。根源的にはみんな新しい出会いにはオープンで、求めているんじゃないのって。

“サークル”というユニークなシステム。
先に挙げた新しい人との交流の場での閉鎖性って言うのは生きてきて培われてきた精神的なものが大きいと思うけれど、システムによる影響もあると思う。
日本で大学生していた時は、皆どこかしらのサークルに属し、そこでのコミュニティを楽しんでいるというのがすごく一般的だった。新歓の時期には多種多様な人に出会うけれど、皆どこかに所属することになり、そこでのコミュニケーションが多くなってくる。新歓期に出会った人との交流はどこかで途絶えることが多い。
一方海外、少なくとも自分が留学していたり、話した欧米圏の大学生で、サークルというものが存在するという話を聞いたことは殆ど無い。勿論スポーツのクラブチームはあるけれどかなりガチなものが多いので日本の体育会の様にあまり皆所属するものでもない。societyというサークルに近い、ゆるいつながりみたいなのはあるけれど、日本の大学にあるサークルの様に種類は無いし、結びつきももっと弱い。オーストラリアにいた時にあったのは、写真のsocietyとか、アジア人学生のsociety、キリスト教のsocietyなどなど。何か活動をするために集まっているというよりは何か自分に共通点のある特徴で集まる感じ。だから毎週何かの活動があったり、飲み会があったりとかいうのはほとんど無い(勿論海外大と言っても国や大学により差はある)し、それゆえ結びつきも大して強くない。ウィーンにいた時はクラブチームすらsocietyすらも無かった。一方サークルでは、ある程度定期的に活動しているものが多いし、普段遊ぶのは基本サークルの人、という人も多いんじゃないだろうか。”サークル”というシステムは、「居場所」の様なものがとても作りやすい構造になっていると思う。 日本に留学に来る留学生もサークルの存在を知って何かに入り、結構謳歌している印象。個人的にもすごく良いシステムだと思う。それは高校までの部活も然り。何かに”所属”することで日本人は居場所を得たと思い、安心感を感じる構造になっている。おそらく会社に入ってもそれは同じなのだろう。
一方で欧米圏ではそういうものがあまりない。自分の居場所、普段の仲間、というのが見つけにくい環境にあるんじゃないかという印象を僕は受けた。中学高校の頃にも部活といったものはあまり無い。欧米の大学生に、「中学高校の頃は毎日4,5時間は部活やってた」みたいな話をすると「君はプロのスポーツ選手を目指していたの?」と聞かれ、いや多くの人がそうだと答えると”You guys are crazy!”という反応をされることが多かった。僕が部活に勤しんでいる中学の時に、ドイツにいる友人を訪ねて数日一緒に過ごした時、学校から帰ってきて、別に部活をするでも無くただのんびりとしていた彼を見てびっくりした記憶がある。定期的に活動の機会があるものに所属することが少ない。だから「〇〇部の山田」とか「△△会社の鈴木」の様に、所属で人をカテゴライズする習慣が余り無い。
彼らがパーティー等の場で新しい人との出会いにオープンでいるのはそういうのの影響もあるんじゃないかと。大学に関して言えば、日本の中・大規模なサークルであれば50人や100人くらいの人がいて、全員とは話さないにせよ、自分が所属するその居場所で仲の良い友達ができる機会が50人100人分あるわけだ。逆にサークルのシステムが根付いてない欧米人にとっては、「所属」する概念があまり無いから、パーティーの様に多くの人がいる場で人と知り合って行かないと友達の数が増えていかない。自ずとそういった場でオープンにならざるを得ない状況が彼らにはあるんじゃないかと。僕自身はサークルの活動を通して仲の良い友人が出来たし、そういう意味では彼らはかわいそうだなと思ったりもした。


でもやっぱり..
「欧米にはサークルの様なシステムが無いから友達増やすためにそういう場に足を運んで友達の輪を広げていかなきゃいけないのかかわいそうざまぁw」
っていう考え方をすることもできるかもしれない。けれど、どんな背景があるにせよ、新しい出会いに対してオープンである彼らは強いと思う。
上でも少し触れたけれど、中学高校での部活、大学でのサークル、そして会社での終身雇用。日本では何かに”所属”することが一般的となるようなシステムが出来上がっている。皆が何かに所属していて、「〜〜の何さん」というカテゴライズが出来た方が人間関係が円滑かつ効率的に進んでいくから。ラクだから。(関連記事:Categorizeとlabelingが好きな日本人) 居場所を作りやすい環境だと思う。けれどそのために、その居場所を一歩出た所にある世界や人に大して臆病になったり、またもっと言うと異なるものに対しての差別につながることもある(これに関してはまた別の記事を書こうと思ってる)。

僕は成長というのはどれだけ多くの、自分と「異質な」人に出会うかによって大きく左右されるのじゃないかなと思っている。「どうしてこんな考え方をするんだろう、こんな生き方をしているのだろう」そういった衝撃を受けることが、自分としては当たり前・常識と考えていた考えや物事に疑問を呈し、また更に思考・行動することに繋がっていく。その「異質さ」というのは勿論身近な人の中にも存在しているのだけれど、やはりコミュニティやグループを越えて、更には国境・国籍を越えたほうがそういった「異質な」考え・視点に出会える確率は高い。僕が海外に行ったり、異国の人と話すのが好きな理由も一つそこにあるのかなと思う。
サークルはとても良いシステム。けれどそこにだけ安住して、新しい出会いに億劫・閉鎖的になってしまうのは勿体無いと思う。サークルの様なコミュニティ・グループを越えた出会いに対してもっとオープンになれれば、もっともっと、日々の生活は面白くなってくんでないかなと思う。


面白いことに、一度、短期であっても留学等の手段で海外に出たほとんどの人が、こういった新しい出会いに対して非常にオープンになって帰ってくる。だから、日本人が国民性としてシャイだとか閉鎖的だとか言われていても、もっとオープンになっていく素養というのはあるんじゃないかと思う。オープンな人が増えていって、もっと日本が、minorityに対しても生きやすい社会になっていったら嬉しいなと思う今日この頃。



おーわり
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